11/28 菊地純子 with Unit – How many days, How many nights
友人が出演していた舞台なので、先月末に行ってきました。
「分からない」ということが大きなポイント。
なぜこのタイトルで、この舞台背景、この衣装で、ひとりひとりの動き、演出がこのようなのか?
それらが最後までバラバラのままでした。何か一瞬でもそれらが集約され、新しい意味やシーンが生まれることがなく、残念でした。
それぞれの動きがタイトルやテーマへとつながるような伏線として捉えることができないので、自然とダンスをするパフォーマー一人一人の動きについてみることだけになってしまって。(それはそれで十分に堪能させてもらいました)
けどそれはつまりダンスを見せる発表会でしかなかった印象を持った。作品ではなく。
発表会のような印象を受けるものはアートの世界でも多々あります。企画に主催や参加側の意図が明確でなかったり、説明しきれていなかったり、展開が不十分であったり。自覚がなかったり。その結果、一つ一つの作品の前で、それに対しての感想を個別に述べるしかないという・・・(かくいうスペインで自分が活動しているグループ展も案外この発表会的なものから脱却しきれていないことが改めて見えてきたりと・・・)
もちろん各個別にいろいろな感想を抱くことが悪い訳ではないけど、全体としての在り方というかアプローチというか、そこらへんを自分は見たいんだなぁと思った。
だって結構バラバラに見えたものたちがあとあとふとしたことで繋がっているとか、繋がってゆく過程そのものって、とても感動するじゃないですか。映画の手法によくありそうだけど、その手法的なものとはまたちょっとニュアンスがきっと違って、計算されているんだけど計算外のもののような。
で、それは案外僕自身の勘違いなんかでもよくって。
でも今回、見終わった感想として、コンテンポラリーダンスの歴史が知りたいとも思った。
というのも、こうした「分からない」動きがなんで生まれて、どのような影響をうけたものなのかとか、背景には何があるんだろうとか。人の価値観とか判断とかも、例えば戦争や自然についての感じ方、考え方って、漠然としていると自然に自分の中から思っているようであっても、そんなものではありえなくって、時代の影響、社会の動向、価値の流れのようなのが常にあって、それは過去の歴史が常にあるゆえに、そうした経緯を経て今の価値判断が生まれている、というのと同じ構造だと思うから。もちろんアートも。
さらにこの「分からない」をめぐる「理解」への欲求が何なのか、ということも考えたり。
というのも、コンテンポラリーダンスそのものが、過去の物から脱皮して新しいものを生み出そうとする動きから誕生したもの、つまりこれまで優位で会った「意味」を脱却/解体する方向から生まれたものらしいので。(まぁWikiでコンテンポラリーダンスのページには、「クラシックな伝統を解体し脱構築を目指している」人たちを総称しているということもあり)そこでは安易な「意味」や「理解」は必要なく、「分からない」ということへの魅力があり、「分からない」というそのポジション自体が変容しているーつまり概念的なものではなく、肉感的、身体的、皮膚感覚的なものへの認知体験というか。だんだん言葉が怪しくなってきました。。
ま、こうした意味/理解をめぐる揺れ動きによって、少しづつ芸術は進化してゆくのかもしれないねー。
でもこの機会を通じて、芸術において、その現場でなにかが生まれているという感触、その場に立ち会ったという感覚が、僕が見たいと思うもの、感じたいと思うものなんだと知ることができた。出演していた友人ががんばっていたから、できるだけしっかり見て、感じたこと思ったことを述べたいなーと思ったので、こうして色々と得るものがありました。
真剣に見て、考えて、書く、伝えるっていうのはシンプルだけどとても大切なことだと思った次第。